新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232941 posted by (C)fronte360
桜門を出て内堀の南西角
P5232938 posted by (C)fronte360
南仕切門跡・太鼓櫓跡
ここより西側の内堀を眺めると、太い水道管が見えます。
P5232939 posted by (C)fronte360
大阪砲兵工廠において製造された送水管。
大阪砲兵工廠では陸軍の兵器・軍装品を主に製造していましたが、民需品の製造も行っていて、当時の西日本の水道管は殆どが大阪砲兵工廠で製造されていたそうです。
P5232940 posted by (C)fronte360
大阪市内のコレラ予防のため建設された大手前配水場が明治28年(1895)に竣工したとのことで、この頃に背製造、設置されたものと思われます。
2020年06月29日
2020年06月26日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・桜門を出て
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232933 posted by (C)fronte360
桜門を出て東側の堀を見ますと、ここからもさっき見た地下壕が確認できます。
他にもあったようですが、埋め戻されてしまっているそうです。
P5232934 posted by (C)fronte360
桜門を出て西側に進むことにします。
P5232936 posted by (C)fronte360
南と西の角にあたる位置に南仕切門、そこまで行くことにします。
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232933 posted by (C)fronte360
桜門を出て東側の堀を見ますと、ここからもさっき見た地下壕が確認できます。
他にもあったようですが、埋め戻されてしまっているそうです。
P5232934 posted by (C)fronte360
桜門を出て西側に進むことにします。
P5232936 posted by (C)fronte360
南と西の角にあたる位置に南仕切門、そこまで行くことにします。
2020年06月25日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・桜門
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232925 posted by (C)fronte360
桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多門櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、城内第3位である。なお、上部の多門櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
P5232931 posted by (C)fronte360
P5232932 posted by (C)fronte360
重要文化財 桜門
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868年)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
P5232935 posted by (C)fronte360
この桜門も陸軍による再建でした。
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232925 posted by (C)fronte360
桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多門櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、城内第3位である。なお、上部の多門櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
P5232931 posted by (C)fronte360
P5232932 posted by (C)fronte360
重要文化財 桜門
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868年)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
P5232935 posted by (C)fronte360
この桜門も陸軍による再建でした。
2020年06月24日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・銀明水井戸の井筒
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232927 posted by (C)fronte360
本丸の南側、桜門より本丸を出ることにしますが、脇に井戸がありますね。
P5232928 posted by (C)fronte360
銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は大阪城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役員たちの飲料水として用いられた。大阪城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。
P5232930 posted by (C)fronte360
この井筒も陸軍によって移設されたのですね。
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232927 posted by (C)fronte360
本丸の南側、桜門より本丸を出ることにしますが、脇に井戸がありますね。
P5232928 posted by (C)fronte360
銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は大阪城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役員たちの飲料水として用いられた。大阪城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。
P5232930 posted by (C)fronte360
この井筒も陸軍によって移設されたのですね。
2020年06月23日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・内堀の地下壕
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232919 posted by (C)fronte360
ミライザ大阪城(第四師団司令部庁舎)の南側より内堀を覗き込みますと、
地下壕の跡を見ることができます。
P5232920 posted by (C)fronte360
緑色のフェンスで囲われていますね。
現在の豊国神社のあたりに大阪師管区司令部の庁舎があったようで、そこへの地下壕であったと思われます。
今は埋め戻されていますが、空襲に備えて長さ数百メートルにおよぶ壕が掘られており、この内堀には出入口が3つほどあったようです。
P5232923 posted by (C)fronte360
大阪城の戦跡を示すプレートもありました。
P5232924 posted by (C)fronte360
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232919 posted by (C)fronte360
ミライザ大阪城(第四師団司令部庁舎)の南側より内堀を覗き込みますと、
地下壕の跡を見ることができます。
P5232920 posted by (C)fronte360
緑色のフェンスで囲われていますね。
現在の豊国神社のあたりに大阪師管区司令部の庁舎があったようで、そこへの地下壕であったと思われます。
今は埋め戻されていますが、空襲に備えて長さ数百メートルにおよぶ壕が掘られており、この内堀には出入口が3つほどあったようです。
P5232923 posted by (C)fronte360
大阪城の戦跡を示すプレートもありました。
P5232924 posted by (C)fronte360
2020年06月22日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・旧第四師団司令部庁舎
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232913 posted by (C)fronte360
旧第四師団司令部庁舎、現在はミライザ大阪城として利用されています。
P5232914 posted by (C)fronte360
現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年(1931)、陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、左右対称の重厚な外観をあらわす。昭和20年の第二次世界大戦終結時は中部軍司令部の庁舎だった。連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察(大阪市警察局、大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001)までは大阪市立博物館として使われた。平成29年に耐震補強ならびに外装・内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、大阪城公園内の史跡に関する情報などを提供する「ミライザ大阪城」として利用されている。
P5232916 posted by (C)fronte360
P5232917 posted by (C)fronte360
裏にまわると地下室へのスロープがありますね。
P5232921 posted by (C)fronte360
通路を覗くとこんな感じ。
P5232922 posted by (C)fronte360
コロナ禍なので中に入るのは遠慮しておきました。
P5232900 posted by (C)fronte360
P5232901 posted by (C)fronte360
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232913 posted by (C)fronte360
旧第四師団司令部庁舎、現在はミライザ大阪城として利用されています。
P5232914 posted by (C)fronte360
現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年(1931)、陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、左右対称の重厚な外観をあらわす。昭和20年の第二次世界大戦終結時は中部軍司令部の庁舎だった。連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察(大阪市警察局、大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001)までは大阪市立博物館として使われた。平成29年に耐震補強ならびに外装・内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、大阪城公園内の史跡に関する情報などを提供する「ミライザ大阪城」として利用されている。
P5232916 posted by (C)fronte360
P5232917 posted by (C)fronte360
裏にまわると地下室へのスロープがありますね。
P5232921 posted by (C)fronte360
通路を覗くとこんな感じ。
P5232922 posted by (C)fronte360
コロナ禍なので中に入るのは遠慮しておきました。
P5232900 posted by (C)fronte360
P5232901 posted by (C)fronte360
2020年06月18日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・中部軍司令部防空作戦室跡
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232907 posted by (C)fronte360
中部軍司令部防空作戦室跡
P5232908 posted by (C)fronte360
第二次世界大戦の末期、陸軍の中部軍司令部防空作戦室の施設が大阪城本丸の南側に建造された。時期は昭和18年(1943)と考えられ、ここを拠点に防空作戦の立案、敵機飛来の感知や目標値の予測、迎撃命令の発令、管区内への空襲警報発令などが行われた。構造は地上3階、地下1階のコンクリート製、地下1階から地上2階までの内部は吹き抜けで、壁は爆撃に耐えられるよう1メートル以上あった。空爆による破壊をまぬがれて戦後に至ったが、公園整備の一環として昭和45年に解体撤去された。堅牢だったため工事は難航をきわめたという。
P5232909 posted by (C)fronte360
今は何もない広場のようになってます。
P5232911 posted by (C)fronte360
南側、桜門の外に豊国神社。 豊臣秀吉をお祀りした神社。
P5232910 posted by (C)fronte360
こちらは修道館。 いわゆる、武道館ですね。
P5232912 posted by (C)fronte360
振り返って北側に天守閣を見て、ここを出て日本庭園に戻ります。
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232907 posted by (C)fronte360
中部軍司令部防空作戦室跡
P5232908 posted by (C)fronte360
第二次世界大戦の末期、陸軍の中部軍司令部防空作戦室の施設が大阪城本丸の南側に建造された。時期は昭和18年(1943)と考えられ、ここを拠点に防空作戦の立案、敵機飛来の感知や目標値の予測、迎撃命令の発令、管区内への空襲警報発令などが行われた。構造は地上3階、地下1階のコンクリート製、地下1階から地上2階までの内部は吹き抜けで、壁は爆撃に耐えられるよう1メートル以上あった。空爆による破壊をまぬがれて戦後に至ったが、公園整備の一環として昭和45年に解体撤去された。堅牢だったため工事は難航をきわめたという。
P5232909 posted by (C)fronte360
今は何もない広場のようになってます。
P5232911 posted by (C)fronte360
南側、桜門の外に豊国神社。 豊臣秀吉をお祀りした神社。
P5232910 posted by (C)fronte360
こちらは修道館。 いわゆる、武道館ですね。
P5232912 posted by (C)fronte360
振り返って北側に天守閣を見て、ここを出て日本庭園に戻ります。
2020年06月17日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・日本庭園、送水管
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232904 posted by (C)fronte360
本丸広場、かつて露店っぽい食堂などがありましたが、一掃されて、その後方に庭園があったのですね。
「日本庭園」
P5232902 posted by (C)fronte360
昭和6年(1931)の大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に残っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園である。中央の池は面積約300坪の鶴翼形、背景に築山をめぐらしている。池の南側からは、天守を借景として庭園のたたずまいが楽しめるよう工夫がなされている。
P5232903 posted by (C)fronte360
P5232905 posted by (C)fronte360
おっと、戦跡巡りでしたね・・・
西側の石垣の上より西の丸庭園を眺めます。
天守閣と西の丸庭園を繋ぐ送水管が見えますね。
P5232906 posted by (C)fronte360
これは、大阪砲兵工廠において製造された送水管で、今でも現役で使われているものです。
あとでまた見にいってみましょう。
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232904 posted by (C)fronte360
本丸広場、かつて露店っぽい食堂などがありましたが、一掃されて、その後方に庭園があったのですね。
「日本庭園」
P5232902 posted by (C)fronte360
昭和6年(1931)の大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に残っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園である。中央の池は面積約300坪の鶴翼形、背景に築山をめぐらしている。池の南側からは、天守を借景として庭園のたたずまいが楽しめるよう工夫がなされている。
P5232903 posted by (C)fronte360
P5232905 posted by (C)fronte360
おっと、戦跡巡りでしたね・・・
西側の石垣の上より西の丸庭園を眺めます。
天守閣と西の丸庭園を繋ぐ送水管が見えますね。
P5232906 posted by (C)fronte360
これは、大阪砲兵工廠において製造された送水管で、今でも現役で使われているものです。
あとでまた見にいってみましょう。
2020年06月16日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・タイムカプセル
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232895 posted by (C)fronte360
大阪城天守閣前の本丸広場。 見慣れないものが続きましたが、コレは知ってます。
P5232896 posted by (C)fronte360
万博を記念して埋められたタイムカプセル!
P5232897 posted by (C)fronte360
「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会を記念して毎日新聞社、松下電器産業株式会社の両社は同じ内容のカプセル2個を完成し、この地下15mに埋設しました。
日本をはじめ世界各国の人びとの協力を得て選んだ20世紀の文化所産2098点が、最新の保存技術によって特殊金属性容器んい収納されています。
私たちは限りない世界の平和と繁栄を信じて、5000年後の人類にこれをのこします。
上部のカプセルは毎世紀初頭に、下部のカプセルは6970年に開封していただくことをここにお願いします。
1971年3月15日
カプセル 形状 球形休憩 内容積 50万? 内径 1m 重量 2.12t
P5232898 posted by (C)fronte360
タイムカプセルの容器は、大阪歴史博物館に置いてましたね。
P5232899 posted by (C)fronte360
上記説明板にも書いてあったように、今世紀初頭に点検のために開封(その後また埋め戻し)されたタイムカプセルの論文を見つけました。
タイム・カプセルEXPO'70の開封 - 表面分析研究会 SASJ
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232895 posted by (C)fronte360
大阪城天守閣前の本丸広場。 見慣れないものが続きましたが、コレは知ってます。
P5232896 posted by (C)fronte360
万博を記念して埋められたタイムカプセル!
P5232897 posted by (C)fronte360
「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会を記念して毎日新聞社、松下電器産業株式会社の両社は同じ内容のカプセル2個を完成し、この地下15mに埋設しました。
日本をはじめ世界各国の人びとの協力を得て選んだ20世紀の文化所産2098点が、最新の保存技術によって特殊金属性容器んい収納されています。
私たちは限りない世界の平和と繁栄を信じて、5000年後の人類にこれをのこします。
上部のカプセルは毎世紀初頭に、下部のカプセルは6970年に開封していただくことをここにお願いします。
1971年3月15日
カプセル 形状 球形休憩 内容積 50万? 内径 1m 重量 2.12t
P5232898 posted by (C)fronte360
タイムカプセルの容器は、大阪歴史博物館に置いてましたね。
P5232899 posted by (C)fronte360
上記説明板にも書いてあったように、今世紀初頭に点検のために開封(その後また埋め戻し)されたタイムカプセルの論文を見つけました。
タイム・カプセルEXPO'70の開封 - 表面分析研究会 SASJ
2020年06月15日
大阪散歩20200523_大阪城公園の戦跡巡り・本丸
新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
P5232888 posted by (C)fronte360
大阪城天守閣前の本丸広場。 天守閣前に「残念石」が置いてます。
P5232889 posted by (C)fronte360
こんなん、いつからあったっけ?
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「残念石」
両横に鎮座しているこの石は元和六年(1620年)から始まる大阪城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願がかなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立五十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。
昭和五十六年七月十九日
(社)大阪青年会議所
(社)小豆島青年会議所
そして振り返ると、こんな石碑もありました。
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「大阪城・上田城 友好城郭提携 記念碑」
大阪城は豊臣秀吉によって創築され、上田城は豊臣方の武将として大坂冬の陣・夏の陣で、奮戦した真田幸村の父昌幸によって創築され、両城は真田幸村を通じた深い関係があり、共に広く市民に愛され親しまれている。
今後、両市の歴史・文化に基づいた幅広い友好関係を築き、ますますの発展をはかるため、ここに「友好城郭」としての提携することを宣言する。
平成十八年十月十日
大阪城管理者 大阪市長
上田城管理者 上田市長
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天守閣の入口には「検温所」が設けられていました。
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いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
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大阪城天守閣前の本丸広場。 天守閣前に「残念石」が置いてます。
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こんなん、いつからあったっけ?
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「残念石」
両横に鎮座しているこの石は元和六年(1620年)から始まる大阪城修復の時、天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願がかなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立五十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。
昭和五十六年七月十九日
(社)大阪青年会議所
(社)小豆島青年会議所
そして振り返ると、こんな石碑もありました。
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「大阪城・上田城 友好城郭提携 記念碑」
大阪城は豊臣秀吉によって創築され、上田城は豊臣方の武将として大坂冬の陣・夏の陣で、奮戦した真田幸村の父昌幸によって創築され、両城は真田幸村を通じた深い関係があり、共に広く市民に愛され親しまれている。
今後、両市の歴史・文化に基づいた幅広い友好関係を築き、ますますの発展をはかるため、ここに「友好城郭」としての提携することを宣言する。
平成十八年十月十日
大阪城管理者 大阪市長
上田城管理者 上田市長
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天守閣の入口には「検温所」が設けられていました。
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