近鉄主催のハイキング倶楽部「あみま倶楽部」への参加記録です。
6月16日に第15回目として以下に参加しました。
”八尾市制70周年「大坂夏の陣 八尾・若江の戦い」美将 木村重成を訪ねて”
八尾市幸公園の木村重成の墓へ詣でて、公園を出たのですが・・・
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(C)fronte360第二寝屋川の川向こうに墓地があるのを発見しました。
さっき「徳川方の武将山口重信の墓と向かい合っていました・・・」と
書かれてありましたよね、ハイキングコースからは外れますが、探検しました。
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(C)fronte360墓地に入ると、後ろ向きですが、大きな石柱が立ってますので行ってみました。
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(C)fronte360表面の文字は剥落していますが、山口重信の墓ですね。
亀さんの上に石碑が載っていますよ。
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(C)fronte360
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(C)fronte360お墓の左側の案内板
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(C)fronte360山口伊豆守重信の墓
山口重信は元和元年(1615)「大坂夏の陣」の戦いで、徳川方の武将として豊臣方武将木村重成とこの地で戦い共に戦死しました。
この墓は重信の弟、弘隆により正保四年(1647)重信三十三回忌に建てられました。
三メートル角の礎石の上に亀の背(亀趺)が乗りそのうえに高さ三メートル、幅九十センチ、厚さ四十五センチの墓塔が建てられ銘文には若江堤の戦いの様子が幕府の大学頭 林道春(羅山)の文章を石川丈山の篆刻により刻まれており、篆額上には幡龍二尾を鐫した非常に貴重な墓塔です。
周囲の玉垣は重恒(重信の弟)が、燈籠は家臣の山口忠兵衛重成が承応三年(1654)に、花立は弘隆の嫡男重貞が元禄五年(1692)にそれぞれ寄進したものです。
本体も碑文も当時のままであります。
平成十六年四月 若江南墓地管理委員会
お墓の右側の案内板
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(C)fronte360山口伊豆守重信と若江の戦い
山口家は周防の守護大内氏の流れをくみ、重信の父但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長18年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。
このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。
5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音寺を発し。玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村長門守重成率いる豊臣軍(兵4700人)と壮絶な戦闘を繰り広げました。
これが「若江の戦い」です。
この戦いで、先陣を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など5騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村重成が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。
寛永5年(1628)、重信の武功により父重政に牛久など1万5千石が復され、のち次男但馬守弘隆が本領1万石、三男備前守重恒が5千石を継ぎました。
墓は、兄重信の霊を弔うために弟弘隆が正保4年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応3年(1654)に石柵を建立。家臣の山口忠兵衛重成が同年に石燈籠を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)に石花瓶を寄進し、現在の姿となりました。
墓碑前の石柱は若江村庄屋西村九郎兵衛の建立です。
平成17年2月 東大阪市
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(C)fronte360墓地を出てハイキングコースに戻ります。
posted by fronte360 at 01:00|
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18-大阪散歩
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