2015年12月09日

高知散歩20151122_枡形

寒いっ! 今朝も奈良は1℃台まで冷え込むのかしら・・・
今日は午後よりまた慌しくなりそう、午前中は昨日の積み残しの対応。

とにかく11月の高知の続き。 5ヶ月連続の高知です。

日曜市に行くことにし、えっちらおっちら鏡川沿いから上町の坂本龍馬誕生地、
さらに歩くと出雲大社高知分祀。

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PB222062 posted by (C)fronte360

大国主大神(だいこくさま)と、いなばの白兎

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珍しくもなくふぅ〜んと見てましたけど、そこの脇にこんな石碑ありました。
あれぇ〜こんなのあったの?? 「吉野朝廷時代古戦場跡」

PB222065
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吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡
南北朝時代(1333〜1392)の土佐は、足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったが、南朝勢力は大高坂城(現在の高知城と同一地)を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続いた。やがて、後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝方は一時勢力をもりかえした。そこで北朝方はここ升形近辺にあったといわれる安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃をくり返しおこなった。一方、新田、金沢等は花園宮を奉じて潮江山(筆山)に陣を設けて、数千騎が大高坂城を救援しようとした。その最も激しい戦いがくり広げられたのがこの辺りであったといわれる。「佐伯文書」によると大高坂城は興国元年(暦応三年・1340)に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれ、花園宮はその後西国方面に脱出した。なお松王丸の墓はもと高知市役所敷地内の大公孫樹(銀杏)の場所にあったと伝えら大高坂神社が建てられたが、戦災で焼失したために昭和ニ一年に久万の松熊神社に合祀された。市役所前広場には松王丸の記念碑が建てられている。
                          高知市教育委員会


 
posted by fronte360 at 05:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 15-高知散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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