9月22日(土)、秋分の日が土曜日と重なって、お休みを1日損した気分の日、
かぶとやま交響楽団の定期演奏会に伺うため、JR伊丹駅に降り立ちました。
伊丹での演奏会は、いたみホールかアイフォニックホールのどちらかですが、
いずれにしても、JR伊丹駅より、あくせくとホールに向かうばかり・・・
今回は移動時間を少し早め、簡単にご近所探索をしてみました。
まずはJR伊丹駅の前、改札を抜けて左側の陸橋を下りた所にある有岡城跡
永正17年(1520年)に建てられた日本最古の天守台を持つ平城である。
荒木村重は、伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城することになる。
と wiki には書かれています。
P9221774 posted by (C)fronte360
この石垣の前はよく通りますが、石段を登って中に入るのは始めて。
有岡城の歴史を書いた石碑がありますが、意外とこじんまりとした跡地です。
石碑には以下のように書かれていました。
P9221776 posted by (C)fronte360
有岡城跡
伊丹氏が、この場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は天正2(1574)年に織田信長方の武将・荒木村重の攻撃によって落城した。その後、村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6km・東西800mに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
謀反を起した村重は、天正6年、信長勢の攻撃を受け、十ヶ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
天正8年、池田之助が城主となるが、同11年美濃の国に転封を命じられ、廃城となった。
明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削りとられたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
昭和50年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
平成4年3月に伊丹市教育委員会
惣構(そうがまえ)とは、城下町一帯を堀や石垣、土塁で囲い込んだの城で、
ここはその城のほんの一角、何でも本丸跡らしいですが・・・
礎石跡と井戸跡、いずれも修復されたもののようで、ちょっと整ってますね。
P9221778 posted by (C)fronte360
この石垣は当時のものでしょうか・・・大小とりどりの石積みとなってます。
よ〜く見てみると、直角に切られた石が混じってますね。
P9221780 posted by (C)fronte360
これは寺社仏閣などで使われた石を再利用しているからかな。
戦に備えて大急ぎで作ったときなど、こんな事もあったようですね。
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石垣の脇には「懐古園」の石碑と、説明板(意訳)がありました。
石碑は漢文なので、何かさっぱり分かりませんけど・・・説明板によると
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この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが、果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時期が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛・六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から三百三十年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以って冥すべきである。
明治三十四年九月二十四日 七十五翁 北山撰ならびに書
P9221786 posted by (C)fronte360
城跡を出て、次へ向かいましょう。
P9221788 posted by (C)fronte360
ふと足元を見ると、伊丹のマンホールは白鳥でしょうか。
おしどり? など水鳥がいっぱいですね。
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2012年09月25日
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