義太夫を聴いたり、本を読み、ようやく眠くなりかけましたけれど・・
結局うつらうつらしただけで、眠ることは出来ずに5時過ぎに起床です。
早朝覚醒も困ったものですな。
さてこの前の土日はちょっとサボってしまった感のあった散歩、
今朝は7時半より小一時間、ご近所をゆるゆると歩いてきました。
寒いでしょ、汗をかかないから、逆にけっこう頑張って歩きまわるので
できるだけセーブして歩く感じで動坂を登って直進、本郷通りへ。
ここを南進して、向丘2丁目交差点を越えてから左折して、海蔵寺。
身禄行者のお墓が、富士山を模した溶岩の上に立っています。

身禄行者というのは、江戸時代の富士山信仰・富士講中興の祖で
奉公人より油屋を開き、のち修行の道に入り、富士山で入定
つまり断食により生き仏になったということでしょうか。
享保の飢饉で世の中が不安定な時代、浅間大菩薩に誠の心を持って祈れば
安定した生活が得られるという教えが庶民に広まったそうですね。
ここを離れて団子坂方面に向かいますと、坂の手前にあるNTTのビル

電話ボックスの左側に銀色のプレートが貼ってありますが
ここが平塚らいてう(雷鳥)が主催した青鞜社発祥の地だそうです。
雑誌「青鞜」発刊時の辞「元始女性は太陽だった」は有名ですが
表紙デザインは長沼智恵子、のちの高村智恵子だったそうですね。
そして団子坂

団子屋があったからこの名称? 坂で転んで団子になるので団子坂?
後者なら、炭団坂も急坂で雨の日に転んで炭団のようになるからですね。
なお団子坂は菊人形の発祥の地でもあるようで、
明治時代にはここで4軒の植木屋が腕を競っていたらしいです。
坂を下って不忍通りを越え、よみせ通りに続く道へと左折します。

ゆるくカーブしている道、ここが今はなき藍染川があったところ。
染井を水源に、上流より、境川→谷田川→藍染川と呼ばれていたようですが
大正年間より暗渠工事が始まって、今は道路の下を流れているとのこと。
いつもの道を通り、またいつもの帰路での買い物もして戻るいつもの散歩。
でも「ぶんきょうの史跡めぐり」の本を読んでいるので
新たな発見もありました。
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