新型コロナの緊急事態宣言、大阪などが解除された週末、
いつもの大阪の実家に向かう前に大阪城公園に寄り道しました。
大阪日日新聞の「戦跡を巡る 戦渦を超えて75年」で、大阪城公園の戦跡を実際に見ておきたくなったのでした。
大阪城公園、小学校1年生の時(1964年)、最初の遠足が歩いて行ける大阪城公園でしたし、中学生だった頃(1970-72年)には、当時天満橋にあった中学校へと通う通学路としても利用するなど、とても身近な場所です。
また小学校低学年の頃まで、今の大阪城ホールのあたりにはまだ大阪砲兵工廠の焼跡が広がり、残骸も残っていたのを大阪環状線の中から見ていたことも覚えています。
今は綺麗な公園として整備されている大阪城ですけれど、まだ戦争の傷跡がいくつか残っていること、平和が維持されている今こそ見ておきたいと思ったのでした。
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東洋一の軍需工場・大阪砲兵工廠の正門だった筋鉄門より中に入ります。
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正面に煉瓦が崩落して、今にも朽ちようとする煉瓦造りの建物があります。
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大阪砲兵工廠の守衛詰所跡
過去に建物の一部が改修され、大阪城公園の倉庫などにも使われていたそうです。
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そして、寝屋川橋東詰より見えていた建物が、これです。
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大阪砲兵工廠化学分析場跡
旧鳥取県立図書館や宮崎県庁舎などを手掛けた置塩章氏(1881-1968年)の設計で、1919(大正8)年に建設。
赤れんが2階建(一部地下1階)で、1964-94年まで自衛隊大阪地方連絡部(現・地方協力本部)庁舎として利用されていたと、大阪日日新聞が伝えています。