「鶴橋駅長お薦めフリーハイキング・新発見!!こんなところに有形文化財」
今年21回目となるハイキング参加記録です。

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産湯神社を出て西に進みます。
すると、交差点の角にハイキングマップにも載っていない石仏と石碑を発見!

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伝光寺跡だそうです。

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梅川・忠兵衛の供養塔
大和・新口村の小百姓四兵衛の息子・清八が大坂淡路町にあった飛脚屋に養子に出て、亀屋忠兵衛と名乗っていたが、1709年(宝永6年)新町・槌屋の遊女梅川に通い詰め、店の金を使い込んでいた。
おまけに梅川を身請けするため、店に届けられていた300両の公金まで、手につけてしまい、2人は忠兵衛の生まれ故郷の大和・新口村まで逃亡し、実家近くの大和・上里村(現・香芝市)の親類宅に潜んでいるところを御用となり、刑場の露と消えた(一説には牢死したともいわれる)。
この話を近松門左衛門が1711年(正徳元年)浄瑠璃の「冥土の飛脚」としてに脚色し、名作となった。その後、紀海音が歌舞伎の「恋飛脚大和往来」に脚色している。
大阪市天王寺区城南寺町の一角、せいぜい20平米足らずの空き地に、「梅川・忠兵衛の墓」がある。
これらの墓は安政年間(1854〜60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とある。どちらの墓もかなり痛んでいる。
「梅川・忠兵衛の墓」は戦前までは「伝光寺」というお寺があったが、1945年(昭和20年)3月の空襲で全焼した。
その後、1952年(昭和27年)にこの伝光寺と起善寺、本覚寺の3寺が合併し、顕祥寺として同じ城南寺町内に創建されている。
お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。
福田金塘は江戸時代の後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。
1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。
(大阪再発見・史跡「梅川・忠兵衛の供養塔」より)

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更に西に向かって歩いてゆくと、東平北公園に薄田泣菫の文学碑がありました。

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そしてこの公園には「甦えるわが町」の石碑もありました。

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戦災復興土地区画整理事業の完成を記念して建てられた石碑です。
大阪市内のあちこちに石板だったり石碑があるみたいですね。
ここより更に西に進み、タイトルにある「有形文化財」のあるお寺に到着。

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久本寺と書いて「くほんじ」と読むのだそうです。