2019年02月27日

奈良散歩20190203_酒蔵みてある記・初霞:宇陀松山地区

近鉄主催のハイキング倶楽部「あみま倶楽部」への参加記録。

2019年の6回目は、「酒蔵みてある記」で初めて行く酒蔵・久保本家酒造。
榛原駅より宇陀川沿いを約6Km歩いて「うだアニマルパーク」
ここを出る道が分からなくなり、逡巡して、地図とにらめっこして、こっち・・

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P2030161 posted by (C)fronte360

庭園を見ながら園の出口へと・・・

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ハイキングの人数が多いと鬱陶しいですが道に迷う心配はなく、
少ないと道が分からなくなったときは不安・・・人間っていい加減なものです。

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園を出るこの道を下ったT字路を左に曲がってまっすぐに進むと・・・

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こんな大きな看板の出ている裁判所は初めてですね。 宇陀簡易裁判所。
そしてここを過ぎた辺りより町並みが変わりました。

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左いせ道 でしょうか。

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重要歴史的建造物群保存地区に指定されている「宇陀松山地区」です。

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ということで新しいお店も景観に合わせられてますね。

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突き当りは恵比須神社とのこと

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大宇陀・松山地区について
2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。
周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました。
日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。
また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。
交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています。 その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。 元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。
(「宇陀松山観光案内ホームページ」より)

posted by fronte360 at 01:00| Comment(0) | 19-奈良散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする