本日は臨時休業、のんびりと過ごしています。
いつも高知からのレコードを聴いているので、手持ちの円盤を漁りましたが、
いつもながらのモーツァルト、ヘブラーさんに落ち着いてしまいました。
モーツァルト/ピアノ協奏曲第26番、第17番
イングリット・ヘブラー(p)、ヴィットルド・ロヴィツキ指揮ロンドン交響楽団
P9121703 posted by (C)fronte360
暖かい眼差しを感じさせるヘブラーさんのモーツァルト。
いかにも女流奏者といえる柔らかなタッチ、今では古いスタイルかもね・・・
でも、これで馴染んで育っているので、これでいいんです。 癒されます。
P9121702 posted by (C)fronte360
じつは月曜朝10時過ぎに会社を抜け、ご近所クリニックに行ってきました。
毎年の検査で陽性反応が出ていたものの単身赴任だったし、仕事も忙しく、
放置してましたけど、こちらに戻ってからの検査でも見事に陽性反応。
3年連続陽性なら仕方ありません、こちらの仕事は基本ヒマなんで、
年貢を納めるつもりで気楽に出かけましたけど、3年間の年貢は大きかった。
日帰り手術となってしまいました(通常なら3日程度の入院だそうですが)。
昨日は会議があったので出勤しましたけれども・・・
体内の傷口がバイ菌と戦っていたのでしょうね、微熱があって、
風邪をひいた時のように身体の節々も痛くて、所用を終えて早退しました。
本日は仕事も特にないし、上司の勧めもあって、臨時休業とした次第です。
いつも聴いてる高知から持ち帰った宗教曲のレコードもいいんですけどね〜
心癒される音楽だし、そのまま居眠りしているうちに天国に行けそうですが、
体内の免疫力を高めるには、やはりモーツァルトがいいようです。
日本酒も酒蔵でモーツァルトを聴かせるとよい発酵を促すようですしね。
もっとも当方はしばらく禁酒ですけれど・・・・
とにかく精密検査はサボっちゃだめだということでした。
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2012年09月12日
ウィリアム・ローズ ザ・ロイヤル・コンソート
本日は臨時休業を頂きました。
まだ夏の名残を感じさせる昼下がり、この夏の高知にて捕獲したレコードより、
この所、愛聴しているレコードを聴きながら、命の洗濯をしています。
P9031670 posted by (C)fronte360
《W・ローズ ザ・ロイヤル・コンソート》
2つのヴァイオリン,2つのヴィオラ・ダ・ガンバとテオルボのための組曲
カウンター・テノールとリュートのための6つの歌曲
ヴァイオリン,ヴィオラ・ダ・ガンバ,テオルボとハープのためのコンソート
R.ヤコブ(カウンターT)、S.クイケン(バロックvn)、L.v.ダール(バロックvn)、
W.クイケン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、佐藤豊彦(リュート)、E.ヴィッセンブルク(hp)、
グスタフ・レオンハルト指揮・オルガン
ウィリアム・ローズは、イギリスの作曲家で初期バロックの時代、
世界史を勉強された方ならご存知のクロムウェルによる清教徒革命(1649年)、
この戦いに国王軍として加わって1645年に亡くなっています。
J.S.バッハが生まれたのが1685年なので、一世代前の作曲家でしょうか。
清教徒革命で処刑されたチャールズ1世の宮廷音楽家として最も尊敬され、
国王とは即位前より親交があったのではないか、と解説には書かれています。
自由闊達な感じのする室内楽ですね。
跳躍や不協和音と思われるものも大胆に取り入れられているようですね。
ともすると同じ旋律線の繰り返しで聴き飽きてしまったりもするのですが、
郷愁を感じさせる旋律、豊かな和音と展開の面白さに惹き込まれています。
クラシック音楽は奥が深いですね。
それに解説を読むと、世界史の勉強にもなりますわ。
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まだ夏の名残を感じさせる昼下がり、この夏の高知にて捕獲したレコードより、
この所、愛聴しているレコードを聴きながら、命の洗濯をしています。
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《W・ローズ ザ・ロイヤル・コンソート》
2つのヴァイオリン,2つのヴィオラ・ダ・ガンバとテオルボのための組曲
第2番ニ短調
ヴァイオリン,ヴィオラ・ダ・ガンバとオルガンのためのソナタ第8番ニ長調カウンター・テノールとリュートのための6つの歌曲
ヴァイオリン,ヴィオラ・ダ・ガンバ,テオルボとハープのためのコンソート
第10番ト短調
R.ヤコブ(カウンターT)、S.クイケン(バロックvn)、L.v.ダール(バロックvn)、
W.クイケン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、佐藤豊彦(リュート)、E.ヴィッセンブルク(hp)、
グスタフ・レオンハルト指揮・オルガン
ウィリアム・ローズは、イギリスの作曲家で初期バロックの時代、
世界史を勉強された方ならご存知のクロムウェルによる清教徒革命(1649年)、
この戦いに国王軍として加わって1645年に亡くなっています。
J.S.バッハが生まれたのが1685年なので、一世代前の作曲家でしょうか。
清教徒革命で処刑されたチャールズ1世の宮廷音楽家として最も尊敬され、
国王とは即位前より親交があったのではないか、と解説には書かれています。
自由闊達な感じのする室内楽ですね。
跳躍や不協和音と思われるものも大胆に取り入れられているようですね。
ともすると同じ旋律線の繰り返しで聴き飽きてしまったりもするのですが、
郷愁を感じさせる旋律、豊かな和音と展開の面白さに惹き込まれています。
クラシック音楽は奥が深いですね。
それに解説を読むと、世界史の勉強にもなりますわ。
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若江城跡、美女堂氏遺愛碑
9月1日朝、若江鏡神社より帰路とし、八戸ノ里へと道路(府道24号)を歩くと、
何やら狭い空間に所狭しと石碑が建っているお堂のある場所を発見。
P9011656 posted by (C)fronte360
道路より見るとこの石碑、ああっ、ここが若江城跡なんですね。
もう少し北で、駅のあたりかなと勘違いしていました。
P9011662 posted by (C)fronte360
若江城は、南北朝時代の争乱期(十四世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取り締まりのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳二年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしてました。
畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就に義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永禄十一年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としました。
城は石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。
若江城の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民館分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。
(平成8年1月 東大阪市)
P9011661 posted by (C)fronte360
ここの道路を挟んだ北側にも説明板が立っているので、行ってみました。
P9011667 posted by (C)fronte360
この四角い石碑は、美女堂氏遺愛碑(びんどうしいあいひ)でした。
P9011664 posted by (C)fronte360
この碑は、平成4年4月に、東大阪市若江北町の杉山一彦邸内あったものを、同氏の申し出によって、この地に移されたものです。
碑の高さは105cm、幅65cm、厚さ31cmで、用材は和泉砂岩です。文面を見ると、天保二年(1831)4月に美女堂勝喜氏が、掛川の十東遠氏に文を作らせ、美女堂氏の系譜と懐古の情を禁じ得ず、建立したことが分かります。
碑の表面の文章を要約すると、若江北町には古くから美女堂氏という旧家が四戸あり、この頃(天保二年)には、既に二戸は転居し、吉左衛門の一家ののみが栄えていました。これに対し、勝喜の家の跡には老松だけが茂るだけで、懐古の情が湧き、この碑を建てた、と記されています。
大正時代に出版された「中河内郡誌」によると、摂津源氏として活躍した源満仲が、四男美女丸のために、若江北町にある美女山薬師寺(巨摩堂ともいう)を建立し、子孫は美女堂と名乗った、と記されています。また、子孫は改姓して藤原氏となって、大阪に移住したとも書かれています。
このように美女堂氏の由来が書かれた名族由来の顕彰碑は、貴重な資料であり、若江に関する資料として大切にしたいものです。
(平成5年12月 東大阪市)
P9011666 posted by (C)fronte360
なおこちらに若江城跡の説明板がありまして、
上記文書はこの説明板のものなのですけれど、道路拡張で分断されたみたい。
P9011659 posted by (C)fronte360
平城ながら旧大和側水系を巧みに堀のように使って固めた要塞だったそうで、
調べてみるとけっこう面白いですね → ココ
とうことで勉強にもなった9月1日の散歩はこれにて。
(おしまい)
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何やら狭い空間に所狭しと石碑が建っているお堂のある場所を発見。
P9011656 posted by (C)fronte360
道路より見るとこの石碑、ああっ、ここが若江城跡なんですね。
もう少し北で、駅のあたりかなと勘違いしていました。
P9011662 posted by (C)fronte360
若江城は、南北朝時代の争乱期(十四世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取り締まりのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳二年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしてました。
畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就に義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永禄十一年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としました。
城は石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。
若江城の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民館分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。
(平成8年1月 東大阪市)
P9011661 posted by (C)fronte360
ここの道路を挟んだ北側にも説明板が立っているので、行ってみました。
P9011667 posted by (C)fronte360
この四角い石碑は、美女堂氏遺愛碑(びんどうしいあいひ)でした。
P9011664 posted by (C)fronte360
この碑は、平成4年4月に、東大阪市若江北町の杉山一彦邸内あったものを、同氏の申し出によって、この地に移されたものです。
碑の高さは105cm、幅65cm、厚さ31cmで、用材は和泉砂岩です。文面を見ると、天保二年(1831)4月に美女堂勝喜氏が、掛川の十東遠氏に文を作らせ、美女堂氏の系譜と懐古の情を禁じ得ず、建立したことが分かります。
碑の表面の文章を要約すると、若江北町には古くから美女堂氏という旧家が四戸あり、この頃(天保二年)には、既に二戸は転居し、吉左衛門の一家ののみが栄えていました。これに対し、勝喜の家の跡には老松だけが茂るだけで、懐古の情が湧き、この碑を建てた、と記されています。
大正時代に出版された「中河内郡誌」によると、摂津源氏として活躍した源満仲が、四男美女丸のために、若江北町にある美女山薬師寺(巨摩堂ともいう)を建立し、子孫は美女堂と名乗った、と記されています。また、子孫は改姓して藤原氏となって、大阪に移住したとも書かれています。
このように美女堂氏の由来が書かれた名族由来の顕彰碑は、貴重な資料であり、若江に関する資料として大切にしたいものです。
(平成5年12月 東大阪市)
P9011666 posted by (C)fronte360
なおこちらに若江城跡の説明板がありまして、
上記文書はこの説明板のものなのですけれど、道路拡張で分断されたみたい。
P9011659 posted by (C)fronte360
平城ながら旧大和側水系を巧みに堀のように使って固めた要塞だったそうで、
調べてみるとけっこう面白いですね → ココ
とうことで勉強にもなった9月1日の散歩はこれにて。
(おしまい)
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