10月29日(土)の散歩の記録、
深光寺の隣、縛られ地蔵で有名な林泉寺があったのを帰ってから知りました。
残念、今度チャレンジしてみましょう。
拓殖大学の前に「茗荷谷」のプレートがありました。
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江戸時代、このあたりに茗荷畑が多かったのでついた地名が茗荷谷・・・
そのままやね。 本当にここは谷ですよ。
ここを右にのぼってゆくと、地下鉄茗荷谷駅方面へと出ますが、
左手の坂を登ってゆきました。 振返るとこんな感じ。
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すると、プレートのある区画・・・ ここが新渡戸稲造の旧居跡だそうです。
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新渡戸稲造(1862-1933)は、農学者、教育家、国際人。 南部藩士の子として盛岡に生まれ、幼くして上京した。 明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。 さらに、東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
農政学者・教育者として活躍し、国際連盟事務局次長として 「太平洋のかけはし」として知られる新渡戸稲造(1862〜1933)の旧居跡。 盛岡・南部藩士の子として生まれ、内村鑑三らとともに札幌農学校に学んだ。 その後、東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、 人格主義の教育者として多大な影響を与えた。 この地には、明治37年から没するまで住んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。 後、京都帝大教授を経て、明治39年第一高等学校長となり、学生に深い影響を与えた。 その後東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。 また、地元拓殖大学の学監(学長)も務めた。
「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を西洋に、また静養のそれをわが国に紹介することに努めた。 大正9年には国際連盟事務局次長となり、”連盟の良心”といわれた。 昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
プレートにはこのように書かれてました。
なるほどね、お札の人という認識くらいしかありませんでしたけど、
勉強になりました。
しかしこの旧居跡、ちょっと荒れた感じですよね、何とかなりませんかね。
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11月になりました。
昨夜は23時帰宅でしたが、今夜は23時すぎに退社予定・・・
特に大変な事態ではなく、逆に平穏な感じなんですけどもね、ふぅ〜
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