朝の散歩より帰ったらやはり少々疲れも出たようで
10時過ぎより小一時間うたた寝をしたのが、いい睡眠補給になりました。
そこで12時より午後の散歩に出かけることに・・
この前の日曜日に行ってみようと考えていた秋葉原に向けて田端駅。
快速運転の京浜東北が出たあと、次の電車を待てば早く到着するのですが、
思い立って、山手線の乗車。
鶯谷(うぐいすだに)駅で下車、その目的は2つ
ホーム上屋を繋ぐ鉄骨がレールで出来ていて、そこに○○○の意匠
これは田端駅のと同じですねぇ(よく見ると細部は違いますけども)
あと下谷七福神めぐりの垂れ幕。
逆光でレンズが反射してやや赤くなってしまいましたけど、
今年惜しくも鬼籍に入られた赤塚不二男さんの絵がいい味出してますよね。
さて次の電車に乗ってようやく秋葉原。
目指すはラジオ会館5階の清進商会、ちょっと迷ったけどなんとか到着。
懐かしのオーディオ機器が綺麗に整備されて沢山積み上げられてました。
オーナーさんでしょうか、回路図見ながら半田ごてで修理してらして
自宅のアンプもここで調整して欲しいな、なんて思ってみたり・・・
とにかく今日は見るだけ(いつも??)
それでもたっぷりと2周ほど回って眺めてきましたよ。
次の目的地は、上野方面に進路をとってハイファイ堂
秋葉原店といえどもけっこう秋葉原から離れるんですね。
地下フロアも見ましたけど、こちらはヴィンテージものが中心ですね。
ちょっと手が出ませんわな・・
ここを出て中央通りを突っ切って、三組坂を登って湯島天神へ。
冬休みになったせいでしょうか、けっこうな人出で、
お参りも、お守りなどの売り場も長蛇の列ですよ・・・
お参りをあきらめて春日通り、切通坂を下ります。
この坂道、朝日新聞の校正係の職をようやく得たけれど貧しい石川啄木が
夜勤のときにとぼとぼと登って家に帰った道だそうです。
これも「ぶんきょうの史跡めぐり」からの受け売りですね。
不忍の池を回り、池の中央にある谷中七福神の一つ弁財天にお参り。
ここを辞して上野の山に登って、そうそう・・・と思って南進。
とってもベタですけど、上野の西郷さんです。
通勤のとき、山手線の中から毎日にように見てますが、
ここまで来て見るのって、これが初めてかしら??
このあと京浜東北の快速に乗って田端は1駅、
ここで山手線に乗り換えて巣鴨で買い物をして田端に戻ってきました。
所要時間約3時間。 なかなかいい運動になりました。
2008年12月23日
久しぶりのご近所散歩
昨夜は23時に寝たのに、午前3時に目覚めましたよ。
義太夫を聴いたり、本を読み、ようやく眠くなりかけましたけれど・・
結局うつらうつらしただけで、眠ることは出来ずに5時過ぎに起床です。
早朝覚醒も困ったものですな。
さてこの前の土日はちょっとサボってしまった感のあった散歩、
今朝は7時半より小一時間、ご近所をゆるゆると歩いてきました。
寒いでしょ、汗をかかないから、逆にけっこう頑張って歩きまわるので
できるだけセーブして歩く感じで動坂を登って直進、本郷通りへ。
ここを南進して、向丘2丁目交差点を越えてから左折して、海蔵寺。
身禄行者のお墓が、富士山を模した溶岩の上に立っています。
身禄行者というのは、江戸時代の富士山信仰・富士講中興の祖で
奉公人より油屋を開き、のち修行の道に入り、富士山で入定
つまり断食により生き仏になったということでしょうか。
享保の飢饉で世の中が不安定な時代、浅間大菩薩に誠の心を持って祈れば
安定した生活が得られるという教えが庶民に広まったそうですね。
ここを離れて団子坂方面に向かいますと、坂の手前にあるNTTのビル
電話ボックスの左側に銀色のプレートが貼ってありますが
ここが平塚らいてう(雷鳥)が主催した青鞜社発祥の地だそうです。
雑誌「青鞜」発刊時の辞「元始女性は太陽だった」は有名ですが
表紙デザインは長沼智恵子、のちの高村智恵子だったそうですね。
そして団子坂
団子屋があったからこの名称? 坂で転んで団子になるので団子坂?
後者なら、炭団坂も急坂で雨の日に転んで炭団のようになるからですね。
なお団子坂は菊人形の発祥の地でもあるようで、
明治時代にはここで4軒の植木屋が腕を競っていたらしいです。
坂を下って不忍通りを越え、よみせ通りに続く道へと左折します。
ゆるくカーブしている道、ここが今はなき藍染川があったところ。
染井を水源に、上流より、境川→谷田川→藍染川と呼ばれていたようですが
大正年間より暗渠工事が始まって、今は道路の下を流れているとのこと。
いつもの道を通り、またいつもの帰路での買い物もして戻るいつもの散歩。
でも「ぶんきょうの史跡めぐり」の本を読んでいるので
新たな発見もありました。
義太夫を聴いたり、本を読み、ようやく眠くなりかけましたけれど・・
結局うつらうつらしただけで、眠ることは出来ずに5時過ぎに起床です。
早朝覚醒も困ったものですな。
さてこの前の土日はちょっとサボってしまった感のあった散歩、
今朝は7時半より小一時間、ご近所をゆるゆると歩いてきました。
寒いでしょ、汗をかかないから、逆にけっこう頑張って歩きまわるので
できるだけセーブして歩く感じで動坂を登って直進、本郷通りへ。
ここを南進して、向丘2丁目交差点を越えてから左折して、海蔵寺。
身禄行者のお墓が、富士山を模した溶岩の上に立っています。
身禄行者というのは、江戸時代の富士山信仰・富士講中興の祖で
奉公人より油屋を開き、のち修行の道に入り、富士山で入定
つまり断食により生き仏になったということでしょうか。
享保の飢饉で世の中が不安定な時代、浅間大菩薩に誠の心を持って祈れば
安定した生活が得られるという教えが庶民に広まったそうですね。
ここを離れて団子坂方面に向かいますと、坂の手前にあるNTTのビル
電話ボックスの左側に銀色のプレートが貼ってありますが
ここが平塚らいてう(雷鳥)が主催した青鞜社発祥の地だそうです。
雑誌「青鞜」発刊時の辞「元始女性は太陽だった」は有名ですが
表紙デザインは長沼智恵子、のちの高村智恵子だったそうですね。
そして団子坂
団子屋があったからこの名称? 坂で転んで団子になるので団子坂?
後者なら、炭団坂も急坂で雨の日に転んで炭団のようになるからですね。
なお団子坂は菊人形の発祥の地でもあるようで、
明治時代にはここで4軒の植木屋が腕を競っていたらしいです。
坂を下って不忍通りを越え、よみせ通りに続く道へと左折します。
ゆるくカーブしている道、ここが今はなき藍染川があったところ。
染井を水源に、上流より、境川→谷田川→藍染川と呼ばれていたようですが
大正年間より暗渠工事が始まって、今は道路の下を流れているとのこと。
いつもの道を通り、またいつもの帰路での買い物もして戻るいつもの散歩。
でも「ぶんきょうの史跡めぐり」の本を読んでいるので
新たな発見もありました。